万願寺甘とう 生い立ちを語る。

中南米原産のトウガラシは、今から520年ほど昔、コロンブスがインドと間違えて上陸したカリブ海イスパニョーラ島で発見され、胡椒の一種だと勘違いしてスペインに持ち帰ったのが、中南米以外の世界へ渡った最初だとされる。
その後、ポルトガル人がブラジル東海岸で偶然見つけたトウガラシを交易船に積み込んでアフリカへ。そして喜望峰を経てインド、マカオ、長崎、フィリピンへ。途中で英国船やオランダ船に積まれ、インドネシア、ニューギニアや北米へ広がっていった。
日本への伝来は、1542年あるいは1553年と言われる。コロンブスが初めて目にしてから、わずか半世紀で地球を半周し、日本に到達した。
「茄子のような小さく平たい種をもらい植えたところ赤い袋がなった。その赤皮の辛さは肝をつぶすほど」(奈良興福寺・多聞院日記)と記されているように、伝わったのは辛味の強いトウガラシで、薬用(薬味、漢方薬)として重宝され、また、日本に伝播された当初から、観賞用としても人気が高かった。
そんな中、関西地方、特に京都・奈良周辺では、江戸時代に蔬菜(青果)として辛味のないトウガラシが栽培・食用されるようになる。京の伝統野菜の「伏見とうがらし」が代表だ。今でこそピーマンやパプリカが日本中に広く普及しているが、それらは昭和、それも戦後の話。それ以前の日本で辛味のないトウガラシはごく限られた存在だった。
そして、今からおよそ百年前の大正時代、いくつもの偶然が重なって『万願寺甘とう』の原種が舞鶴で誕生する。経緯に不確かな点もあるが、在来種の成分・特徴から推測するに、当時、京都近郊で広く栽培されていた「伏見とうがらし」と北米原産の「カリフォルニア・ワンダー」との自然交雑から生まれたのではないかと考えられている。
京都北部、日本海に面した舞鶴は歴史上は戦国武将・細川幽斎の『田辺城』が有名だが、古来より北前船の寄港地としても知られ、多くの廻船問屋が軒を連ねた。また、明治以降は海軍鎮守府が置かれ、軍港の町として発展した。

それら、海を介したさまざまな繋がりが、偶然に新しい植物との出会いをもたらしたのかも知れない。
『万願寺甘とう』の名前は、鎌倉時代に創建の古刹『満願寺』のある現在の舞鶴市西南地区の村の名(字名)、『万願寺』に由来する。古刹『満願寺』は、比叡山の大法師弁円が『十一面観音菩薩』を彫り、堂を建て本尊に収めた寺で、かつては惣門があり、七堂伽藍で荘厳を極めた大寺だったという。その地、万願寺の農家、嵯峨根ゆきのさんが、市内久田美の親戚から「珍しいタネがある」と言われ、もらってきて自家栽培したのが『万願寺甘とう』の始まりとされる。
村人はゆきのさんからタネを分けてもらい栽培した。当時、約30戸の農家で毎年タネを採り、営々と栽培を続けた。いつしか「美味しい」と評判になり、万願寺地区固有の在来種として認知されるまでになった。
どの段階で『万願寺甘とう』の原種が固定したのか、はっきりと分からないが、きっかけは「伏見とうがらし」と「カリフォルニア・ワンダー」を同じ畑に並べて植えたことで自然交雑した事だろう。

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本来、トウガラシはナス科の植物なので、風を介して受粉する「風媒花」だ。そのため、虫を介して受粉する「虫媒花」とは異なり放っておけば自然に自家受粉する。しかし、訪花昆虫も多いためかトウガラシの他家受粉率は5〜20%程度と意外に高いとの報告もある。そんな偶然も味方して、新しい甘とうがらしは誕生した。評判となった、ゆきのさんの甘とうがらしは、やがて万願寺以外の農家でも栽培が試みられるが、どうしても上手く育たなかった。連作がきかず、病気に弱く、栽培がむずかしい野菜だと敬遠された。
では、何故、万願寺では、ゆきのさん達は栽培に成功したのか?
元々河原であったため土壌は砂質で、過乾過湿に弱いトウガラシの適性にうまく合致したということ。そして、もう一点、万願寺地区一帯が古くからの遊水地帯だったからではないかと言われている。この一帯は伊佐津川の東側に位置し、洪水から西側の田辺城と城下を守るために川の東側の堤防が低い。そのため、大雨のたびに大量の水と土砂が流れ込んだ。このたびに上流からの肥沃な泥土が堆積することで農作業に適した土壌に常に再生していたためだという。


チャンスは、ピンチ。

時は移り、戦後の高度成長の時代。農村人口の流出が加速し、農業新時代が叫ばれた。

それを受け、地場野菜の振興と地域ならではの特産品育成に『万願寺甘とう』が選ばれプロジェクトが始動する。その頃、万願寺の農家は約30戸。昔ながらに多品目の自家用野菜を少量栽培しており、朝穫りした野菜をリヤカーに積んで市内に売り歩いていた。『万願寺甘とう』も同様で、農協を経由して市場へ出荷されるような生産量ではなかった。
管轄する舞鶴中筋農協では、組合長自ら陣頭に立ち、育苗センターを建設した。1981(昭和56)年に京都府立大で台木が発見されると京都府農業総合研究所(現・京都府農林センター)の協力のもと、現地での接木栽培を実証し、遊水地帯以外での栽培も可能にした。それに伴い生産者の仲間も増えていった。
1983(昭和58)年、京都府から中筋農協に〝野菜のブランド化〟の打診が入る。今でこそ珍しくはないが、当時の日本で野菜をブランド化しようという発想は、とても大胆なことだった。
それまで地元では「万願寺とうがらし」(通称「青とうがらし」)と品名、品種で呼ばれていたのを改め、この地から出荷するものを『万願寺甘とう』と命名した。農協内に「甘とう部会」を発足、栽培や出荷のルール、共同選果の仕組みや品質の基準作りも行なって、産地を挙げて本格的な生産と出荷がはじまった。元々、地元の市場など限られた範囲にしか出回らなかったものを、初めて本格的に京都市場に向けて出荷した。

名前と味を知ってもらうために、市場で素焼きして仲買人たちに試食してもらった。出来る事は何でもしようと考えた。試食会は各地のスーパーや、他の市場でも行なった。とにかく3年間は、ひたすらPRを続けた。京都府の農林漁業祭では、福知山や宮津の名産品に並んで『万願寺甘とう』を出品、天婦羅にして1,000人の来訪者に供した。
農協の幹部は、頻繁に京都と舞鶴を往復した。京都から舞鶴まで、まだ高速道路も繋がっていなかった時代、夜、舞鶴を車で出発し、京都中央市場で仮眠して、朝、競りを見て売れ行きを確認する。すぐに舞鶴に戻り、午前中の会議で次の手を考える。その繰り返しだった。
『万願寺甘とう』は、幸運にも最初から反響を呼び、ものすごく評判が良かった。むしろ、売れ行きが良すぎて品物が足りなかった。四年後には市内全域に生産を拡大し、品質の維持も徹底した。農協では当時は高価だったパソコンを導入し、少ない職員の人数を補って出荷管理を行なった。
『万願寺甘とう』のブランド化は成功を収め、他の京野菜のブランド化の先駆けとなった。
そして、1989(平成元)年、京のふるさと産品協会より『京のブランド産品』第一号の認証を受ける。厳選された京野菜、京都が誇る逸品として公に認められたことで『万願寺甘とう』はさらなる飛躍に向かった。

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 KMII。

〜京都万願寺2号〜

『万願寺甘とう』の誇れる特長に〝固定種〟であることが挙げられる。〝固定種〟とは、地方野菜や伝統野菜など、その産地で味や形が固定され品種として独立しているタネのこと。俗に〝F1〟とか〝ハイブリット〟と呼ばれる一代雑種(一代交配種)、つまり「一代限りで採種できないタネ」とは異なり、産地で選抜して自家採種し、それを毎年繰り返すことで気候風土に順応し、地域で作りやすくなる。
例えば大きさや品質に不揃いの野菜があって、その不揃いさが〝固定種らしさ〟なのかというと決してそうではない。あっちの株よりこっちの株の方が揃いがいい、というふうに毎年、株(母本)選抜を繰り返し揃いの良いものに少しずつ変えて行く。

優良な母本を維持するため原種を選抜し、逆に不出来な株をタネ採りから排除して淘汰して行くのだ。
『万願寺甘とう』は、この〝固定種〟らしい基本の原理を大切に品種改良を行なった。改良の動機は、規格選別をクリアした秀品であっても辛味の強い果実が混入し、買い手からクレームが来たからだ。
そこで京都府農林センターでは、在来種から純系分離で辛味果の発生率が低い系統を選抜して行き、葯培養により固定した新品種を開発した。辛味果の発生は在来種に比べ、3〜6%まで抑制された。この新しい品種は、『京都万願寺1号』と名付けられ、2007(平成19)年、正式に品種登録された。
そして、さらにグレードアップした『京都万願寺2号』が2012(平成24)年に導入される。

辛味のない種子親(ピーマン品種)と『1号』を花粉親に人工交配し、以後、戻し交雑を連続して進めて、辛味遺伝子座を目印に選抜していった。「在来種の主要特性を残しながら、辛味果が全く発生しない優良個体が得られて新品種の完成に繋がった」という。『1号』に比べ2センチほど大型で、時折発生していたアントシアニンによる紫色の変色果の発生も少ない。
そして何より、近年『万願寺甘とう』の類似品種が各地で多種育成されている中で、それらと異なり辛味を完全に抑えた唯一正統な品種だ。
〝固定種〟ならではの良さを引き継いで、一歩ずつ一歩ずつ進化して行く。これからもそれが『万願寺甘とう』のアイデンティティなのだと思う。
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